最近、「消えていく」あるいは「見切りをつけた」関係が多い。
消えていく理由にはもちろん様々なものがあるのだが、外的なきっかけとして大きいのはやはりコロナ禍で直接、会う機会が愕然と減った時期があったということだろう。 去る者は日々に疎しとは言うけれど、リアルに交流することが途絶えてしまうとやはりそこから自然消滅的に交流が途絶えてしまう、再会のきっかけが掴めなくなってしまうというのは如何ともし難い。 現在では多少は状況が落ち着いたとは言え、現在のコロナに対する相手の向かい合い方なんかによっては再会に二の足を踏む場合なんかもあって、やはり、健康や生活のリスクを大きく負ってまで労をとって会うべきなのか、みたいなところで逡巡してしまうと、そういう相手とは会いたくない訳ではないけれど、どうしても疎遠になってしまう。
Facebookのようなものを使って交流する、交流を広げるといった事についてもブーム去ったというか、意義が感じられなくなったりしたことも大きいし、直接会うほどの関係ではないけれど長年続いてきた関係にふんぎりをつけるという点では昨年の葉書、切手代の高騰による年賀状の激減も大きい。 実際、直接会うことなど10年以上ないし、今後も会う可能性は極めて低く会ったところで何が起こる、みたいなややしがらみ的にダラダラと続いてきた関係も元々年賀状のやり取りなどには含まれてはいたのだが、そういうものが一気にここでトドメを刺されてしまった感はある。 また、残念ながら、ここ数年で相手の自分に対する対応にあまりにゲンナリ、ウンザリして断絶する方向に舵を切った相手もいないことはない。それ以外に言えば、以前にも少し書いたような相手が亡くなってしまった、というどうしようもない消え方、というのもあったりはするが、当然、そういうのはごく限られた人に過ぎない。
ただ、そういう外的な要因で関係が途絶えたり…
最近、「消えていく」あるいは「見切りをつけた」関係が多い。
消えていく理由にはもちろん様々なものがあるのだが、外的なきっかけとして大きいのはやはりコロナ禍で直接、会う機会が愕然と減った時期があったということだろう。 去る者は日々に疎しとは言うけれど、リアルに交流することが途絶えてしまうとやはりそこから自然消滅的に交流が途絶えてしまう、再会のきっかけが掴めなくなってしまうというのは如何ともし難い。 現在では多少は状況が落ち着いたとは言え、現在のコロナに対する相手の向かい合い方なんかによっては再会に二の足を踏む場合なんかもあって、やはり、健康や生活のリスクを大きく負ってまで労をとって会うべきなのか、みたいなところで逡巡してしまうと、そういう相手とは会いたくない訳ではないけれど、どうしても疎遠になってしまう。
Facebookのようなものを使って交流する、交流を広げるといった事についてもブーム去ったというか、意義が感じられなくなったりしたことも大きいし、直接会うほどの関係ではないけれど長年続いてきた関係にふんぎりをつけるという点では昨年の葉書、切手代の高騰による年賀状の激減も大きい。 実際、直接会うことなど10年以上ないし、今後も会う可能性は極めて低く会ったところで何が起こる、みたいなややしがらみ的にダラダラと続いてきた関係も元々年賀状のやり取りなどには含まれてはいたのだが、そういうものが一気にここでトドメを刺されてしまった感はある。 また、残念ながら、ここ数年で相手の自分に対する対応にあまりにゲンナリ、ウンザリして断絶する方向に舵を切った相手もいないことはない。それ以外に言えば、以前にも少し書いたような相手が亡くなってしまった、というどうしようもない消え方、というのもあったりはするが、当然、そういうのはごく限られた人に過ぎない。
ただ、そういう外的な要因で関係が途絶えたり、疎遠になったりする中で、それに対する自分自身の心情が以前とは異なるものになっていることも大きいように感じる。 つまり、物理的に会いたくても会えない、というだけなら会える条件を整えるとか会えるようになったら今まで我慢してきた分、しっかり会おうとか、そういう反動、振れ方をしても良いのだろうけれども、あんまりそうなってもいないのは外的な条件というよりも自分自身の内面的なことの方が大きい。 というのも、年賀状での交流はもとより、ここ数年の状況によって会う機会が愕然と減った友人、知人に関して、ふと「あぁ、多分、この人とはもう今後の人生でリアルに会う可能性はほとんどないのだろうな」と妙に達観してしまうというか、諦念に包まれるというか、距離とか今まで関わった回数とか会わなくなってからのインターバルとか生活環境とか、あるいは今後の予想、そして、何よりも自分に残された時間みたいなものを想像してみた時に、別に積極的に切っていこうとかそういう訳ではないけれど、もう会う機会もほとんどないのだろうな、このまま消えていくならもう仕方ないな、みたいな気持ちになってしまっている関係やそこから見切りをつけた関係というのがそこそこあるんである。 実際、冷静に考えてみるとコロナ感染のリスクなどは言うまでもないとして、今の生活の中でたとえば、平日の晩にどこかに出掛けて行って交流を持つ、みたいなことって子育てを考えると(少なくともここ数年は)全然現実的でないし、休日にしてもよほど身近で重要な関係や緊急性の高い案件でない限り、家族優先みたいなことに自分の中では明らかになっている。そういう条件の中で一体全体、現状、どれほどの関係を維持できるのか。 先の健康や生活のリスクを云々という点で交流が途絶えていった知人などは、会いたい気持ちはあるのに色々なハードルが邪魔して、という面もないことはないが、ぶっちゃけ言ってしまえば、どこか自分の潜在意識の中での優先順位が低かったものがこれをきっかけに(ある意味、これ幸いに)消えていったというところなのかもしれない。 ましてや、相手に対してゲンナリ、ウンザリしていた場合などは、今の生活、残された時間の中でしがらみや義理や何となくの後ろめたさで無理に関係を残しておかなくてもいいよな、という気持ちになってしまったというのはある。 そうなると残るものは残るだろうけれど、消えていくものは仕方ないな、そこに振り向ける熱意は今、そんなにないな、という気にもなってくるのだ。
実際、今年の夏、久しぶりに高校時代の友人の集まりに顔を出すことができたのだが、実際に出席するまでは果たして本当に受け入れてもらえるのか、場違いではないか、もうノリも合わなくなっているのではないか、など悶々としていたのだが、会ってみると心から再会して良かったと思える嬉しく楽しい時間と空間を味わうことができた。 こういうものはやはり、できる限りは大切にしたいと痛感した。 しかし、一方で残念ながら、彼らにあと何回会えるのだろうか、次にいつ会えるのだろうか、いつまで会えるのだろうか、とシビアに感じ、切ない気持ちになったことも事実である。 故郷の友達である以上、自分自身の親が亡くなってしまい故郷に生活、滞在の拠点が失われることになれば友達に会う気があるない以前の話として故郷に戻る理由や手段そのものがなくなってしまう(すでにお墓も別の場所に移してしまっているし)。そして、そういう事態が起こるのは決して遙か未来のことでは、ない。友達の貴重さ、ありがたさを痛感すればするほどに喪失感の先取りで気落ちしてしまったところだ。
筆者としては余程のことがない限り、別に積極的に人間関係を選別しようとかそういう考えは全くなく、この世界に縁があって出会った人との繋がりは出来る限り大切にしたいなぁと思ってきた方だと思っている。 もちろん、縁を大切にと思っているからといってそれが実現できているかと言うとこれはなかなか難しいのだけれど、少なくとも積極的に切り捨てたりしてきたわけではない。当事者にすらどうにもならない出来事や事情が生じることもあって、願ったところでつながりが途絶えてしまうという事の方が多いのだ。わざわざ切り捨てることまでしなくても良いではないか。どちらかというと自分の方からはあれこれと考えてグジグジと人間関係を切るに切れずにいるタイプと言えるかもしれない。 それが、今、こんな感じという。
いずれにしても自分の中の諦念というか、無常感が強くなっている最近ではある。 あれこれの関係を自分の中で引きずり、気を回し過ぎて切るに切れない、という面から考えるとバランスが取れてきたというか、悪い事ではないとも言えるのだろうけれど。 でも、まぁ、多分、ちょっと病んでるんだろうな。 自分で書いていて、あまり気持ちの良いものではないという事が分かった。 人生の店仕舞いにはちょっとまだ早過ぎる。 すぐに方向転換できるものではないけれど、自覚はしておこう。