かつて、ふと立ち寄ったTower Recordで商品(のタグ)を見つけ、悩む間もなくレジに直行。出てきた現物に本人よりも周りのお客さんが驚いた顔をしていたのがコレである(多分、「ウオォ、大人買いだ!」というセリフがシンクロニシティでお客さんの脳裏に一斉に浮かんでいたに違いない、笑)。筆者としても、これ以上の大人買いは未だかつてした事がない。
さて、それはとにかくとして、アニメ作品について触れることはほとんどないだろうこのブログにおいて取り上げる数少ない作品の一つが本作である。 本放映がされた当時、サンライズアニメにおいて富野由悠季監督作品系(ガンダム、ザブングル、ダンバイン、エルガイムと続いていく)と双璧をなす勢いがあったといって過言でなかったのが、高橋良輔監督のいわゆるリアル・ロボット路線であり、その嚆矢となる前作『太陽の牙ダグラム』では、(地球が植民した)植民惑星の独立戦争におけるゲリラ戦(それと並行する政治劇)などという随分とハードな世界が描かれており、この作品の後、次は何が来るのかと待ち構えていたところにきたのがこの本作であった。 まず速報で驚いたのが、登場するロボット、そうArmored Trooper(AT)である。 ダグラムも大概、従来のロボットらしい「顔」がなく、空を飛ぶわけでもなく、図体もあのガンダムよりも小さかったわけだが、今回はなんと全高3~4m。そのスコープを組み合わせた無骨な面構えやリベット打ちの装甲も含めて、ジープやヘリコプターといった現代兵器の延長線上に普通にあり得そうな存在感と兵器としての無記名性。ガンダム以降、徐々に主人公が登場するメカの「ヒーロー臭さ」は廃されつつはあったものの、本作に至っては特定のロボットに乗り続けるとか、他のロボットとは一線を画す性能があるとか(まぁ、後半に登場したラビドリー・ドッグなどはちょっと別だが)、そういう部…
かつて、ふと立ち寄ったTower Recordで商品(のタグ)を見つけ、悩む間もなくレジに直行。出てきた現物に本人よりも周りのお客さんが驚いた顔をしていたのがコレである(多分、「ウオォ、大人買いだ!」というセリフがシンクロニシティでお客さんの脳裏に一斉に浮かんでいたに違いない、笑)。筆者としても、これ以上の大人買いは未だかつてした事がない。
さて、それはとにかくとして、アニメ作品について触れることはほとんどないだろうこのブログにおいて取り上げる数少ない作品の一つが本作である。 本放映がされた当時、サンライズアニメにおいて富野由悠季監督作品系(ガンダム、ザブングル、ダンバイン、エルガイムと続いていく)と双璧をなす勢いがあったといって過言でなかったのが、高橋良輔監督のいわゆるリアル・ロボット路線であり、その嚆矢となる前作『太陽の牙ダグラム』では、(地球が植民した)植民惑星の独立戦争におけるゲリラ戦(それと並行する政治劇)などという随分とハードな世界が描かれており、この作品の後、次は何が来るのかと待ち構えていたところにきたのがこの本作であった。 まず速報で驚いたのが、登場するロボット、そうArmored Trooper(AT)である。 ダグラムも大概、従来のロボットらしい「顔」がなく、空を飛ぶわけでもなく、図体もあのガンダムよりも小さかったわけだが、今回はなんと全高3~4m。そのスコープを組み合わせた無骨な面構えやリベット打ちの装甲も含めて、ジープやヘリコプターといった現代兵器の延長線上に普通にあり得そうな存在感と兵器としての無記名性。ガンダム以降、徐々に主人公が登場するメカの「ヒーロー臭さ」は廃されつつはあったものの、本作に至っては特定のロボットに乗り続けるとか、他のロボットとは一線を画す性能があるとか(まぁ、後半に登場したラビドリー・ドッグなどはちょっと別だが)、そういう部分すら廃されて、壊れたり、ダメージを負えば兵器で乗り捨てていくし、場面によって使用する機種は変わるし、必要があればカスタマイズするし、まさに徹底的に兵器としての位置付けになっていたのは、今考えてもかなり衝撃的である。 言い換えると、本作の焦点はロボットそのものではなく、人間たる主人公にあるということが明示されていたということでもあろう。 そして、その主人公たるキリコ・キュービーのなんと無愛想な雰囲気。それまでにもいわゆる「ニヒルでクールな感じ」の主人公や主人公周りのキャラクターはあったけれど、それとはまた全く異なる独特の雰囲気。どちらかというと、戦争で(今でいうところのPTSD的な)ダメージを負った故の寡黙さ、孤独さを抱えた主人公は、当時の近いものでいえば、『ランボー』的な傷つき方というのだろうか。まぁ、ちょっとそれまでにはあり得ない造形であった。 で、嫌が応にも高まる期待と共に視聴を始めたら、あっという間にハマってしまったのだった。 また、ストーリー展開も絶妙で全4クール、各クールごとに舞台が荒廃した大都市、熱帯のジャングル、宇宙空間、砂漠、失われた高度文明の遺産、と次々に展開して飽きさせることがないし、始まった当初には思いもしなかったスケールの大きな話に収束していく凄まじさよ。 まぁ、各パートの下敷きになった作品群(例えば『ブレードランナー』であったり『地獄の黙示録』であったり)はあるといえばあるのだが、それを一気に一つの作品の中で齟齬なくまとめ上げ、オリジナルな世界にしていく手腕は見事としか言いようがない(もちろん、そんな下敷きとなるものを子どもが意識して観る事はなかったのだが)。
それにしても、筆者としては観ていたアニメの流れで普通に鑑賞していたのだが、後から考えると随分と背伸びをした作品を観ていたものである。どう考えても高校生以上の、大人の背中、社会の厳しさが垣間見えるようになってきた思春期以降の鬱屈と反抗心を抱えた世代がターゲットであろうとしか思えない作品である。 だいたいが第一話から全裸で丸坊主の成人女性がカプセルの中で眠っているシーンが飛び出して来るは、主人公が尋問で拷問(電気ショック)にかけられるは、軍の刑務所を脱走するは、どう考えてもお子様の見るような展開、内容ではない。その後も傭兵が登場したり、これでもかこれでもかと繰り返されるレッドショルダーの映像に苦しむ(どう考えても現代的知見から言えば、トラウマによるフラッシュバックを否応なく引き起こさせるようなほとんど拷問だよねぇ)展開とか、相当にキツい展開が繰り広げられるわけで、何しろ、今みたいにレーティングもなかったし当時の子どもというのはそういった内容であっても、何事もなく触れる事ができていたわけなんだが、いや、そういう話ではなくて、そもそも見るような話か、という。 自分が大人として同席していたら子どもが観るものとしてはちょっと考えちゃうねぇ、正直。 ただ、いずれにしてもこの作品が筆者に与えたインパクトは計り知れず、それまでは泣き虫なところがあり、それでも陽気なところはあり、一人称は「僕」で、まぁ、大人しいタイプであったのだが、転校直後のハードな環境に傷ついていたこともあったとは思うが、一人称が「俺」に変わり、すっかりギラリと鋭い眼光を放っているつもりになり(笑)、苦虫を噛み潰したようにムスッとした、寡黙で影のあるハードボイルドに一直線に憧れると相成ったわけである。まぁ、思春期の、大人に対する不信感や反発が生じ始める年頃の不安定な心にある面、キリコの一匹狼的に組織や権威に対抗していくスタイルが刺さったというところもあるのだろう。 それが良かったのかというと今考えるとそうでもないのだが、やはり、こういうものの人格形成におけるインパクトというのは馬鹿にできないものである。
あと、蛇足にはなるがすでに他のポストで触れたように、自身の音楽体験の中で重要な位置を占めたものの一つには確実に本作における乾裕樹のサウンドトラックがあった事は間違いない。 そう考えると、自分の人生において最大級に近いインパクトを持ったアニメーション作品が本作であったと言って過言ではないだろう。
さて、当時はとにかくリアル・ロボット路線のアニメということで戦いのハードさやリアルさ、登場するロボット(AT)の無骨さ、主人公の無敵ぶり、異能者をめぐる謎といったギミックに目を奪われ、ひたすらそういうハードな世界観に浸っていたし、主人公キリコの寡黙で戦闘マシーンのような沈着冷静、正確無比な戦い振りに魅力を感じていた訳だが(それ以前の主人公というのはいちいち「うおーーー!!!!」とか叫んで戦っていた訳だが、まぁ、真剣に命をやり取りする勝負でそういうことはしないものである。黙々と感情を押し殺し、ジリジリと肌がヒリヒリするような戦いの中をくぐり抜けていくキリコの姿の方が本来であろう)、薄々は感じていたとはいえ、実はこれが大きな誤解、勘違い、あるいは作品の理解としては極めて一面的であったことが大人になってからはよく分かるようになったのも事実である。
というのも、この作品はラブストーリーであり、リハビリテーションの物語でもあったのだ(この点については、高橋監督自身が小説発刊に際してコメントしている通り)。
パーフェクトソルジャーという改造人間相手で、ずいぶんな出会い方とはいえ、異性というものに初めて出会い、お互いをかけがえのないものとして感じるようになり、一緒に生きていくことを望むようになる。その中で、仲間とも出会い、戦争の中で失っていた人間らしい感情を取り戻していく。 だから、その先に夢見られていたのは「普通の男女」として「普通に泣いたり笑ったりする生活」を過ごすこと。 この点を理解すれば、ムスッと寡黙に、人付き合いも悪く、孤独に行動することが最上のことではないし、感情を消して戦いに明け暮れる生活が望ましいわけでも決してないし、そういった人間で溢れかえる戦争で荒み切った社会が素晴らしいわけでもないものとして描かれていたことが分かる。 もちろん、当時の子どもでしかなかった筆者にそのような「平和で平凡な暮らしへの憧れ」とかそういったものの良さが分かろうはずもない。そもそも自分たちが日々営んでいる穏やかな生活こそが貴重であるなどということは、その中にいる人間にとってみれば「酸素のありがたさ」が水に溺れない限り実感できないのと同じくらい困難なことであるのは仕方ない。非日常な戦闘シーンに胸を躍らせ、ハードな状況にワクワクする、というのは止むを得ないところであろう。 あろうけれども、そう考えると何を好き好んでムスッと寡黙に、人付き合いも悪く、孤独に行動することを選ぶ必要があるのか。
もちろん、本編においてこのキリコの望むものが100%実現したかというと、残念ながらそういうわけではない。 ご承知のように普通の生活を送ることはパートナーたるフィアナの特性上も、何よりもキリコ自身の異能者であるという立ち位置からもどうにもこうにも手に入りようがなかったわけで、ラブストーリーとは言えども、簡単にハッピーエンドにはならなかった、随分と残酷な話ではある。 もちろん、この辺りこそ、高橋監督の描き出すリアリティの真骨頂であろうし、後世に語り継がれる作品となった由縁の一つでもあろうけれども。
まぁ、その点から言ってしまうと正直、『赫奕たる異端』以降の作品については、もちろん、キリコの異能者としての特異性や舞台の面白さなどを描き出すという側面から言えば面白いし、興味深い作品であることは間違いないし、筆者自身も『赫奕たる異端』なんかのATのバトルアクションなんかはワクワクしながら観てしまったのだが、ラブストーリーでありリハビリテーションの物語であった、という本編のこの重要な側面から見ると、コールドスリープが邪魔された時点での必然としてフィアナは死んでしまうし、キリコは再び戦いの中に身を投じるしかないわけで、つまり、コールドスリープにはどう足掻いても「そこから先」はないとは言え、それでも「せめて、二人の眠りを未来永劫、邪魔しないでおいてやってよ〜〜〜〜〜」と涙目になってしまうのであった。 その点では、本ボックスセットで初めて邂逅した『赫奕たる異端』に関しては、ちょっと観てみたかったけど観たくはなかったなぁ、という複雑な心境というところであった。
ちなみに後日譚や前日譚となる各種のエピソード(このセットの時点では『ザ・ラスト・レッドショルダー』『ビッグ・バトル』『野望のルーツ』、そして『赫奕たる異端』のみ)などは実の所、このBOXを購入して初めて鑑賞したのだが(なにしろ、昔はOVAも高かったので子どもには手が出せなかった、笑)、それらも含めての大人なドラマは、改めて鑑賞してもやはり魅力的であった。 さらにこのDVD-BOXには関係者のインタビューなどの貴重な映像も収録されており、なかなか全部を観るには体力がいるのだが、…ん?あれ?これ書きながらふと気がついたんだけど、インタビュー系の映像はまだ全部観きっていないんじゃないか?…この時点でのボトムズ関連の映像の集大成としては最高のものになっていると言えるだろう。ちなみに、その後制作された作品を含むBlu-RayによるBoxセットが後日、発売されたようであるが、さすがに重ねてそれまで買おうという感じにはなっていない。 また、今回、若干、ネガティブな事を書いてしまったけれども、このポストを書いていて単品で『赫奕たる異端』以降の作品にもちょっと手を出してもいいかな、なんて迷いが生じてはいる、笑。