Miles Davisのアルバムを取り上げるなぞ、色々な意味で畏れ多いのだけれども、まぁ、このブログのシリーズ の一つ(フュージョン名盤)としては外せない一枚ということで、あえて。
実は、筆者にとってMiles Davisに関して(なんと一切、未聴のまま)最初に買ったアルバムが本作である。 多分、世の中に数多いる音楽リスナー、Miles Davisリスナーの中でもかなり特殊な部類に入るのだろうな、という自覚はある。オーソドックスなアコースティック・ジャズアルバムでもなければ、聴きやすいスムーズなフュージョンでもなく、アルバムジャケットだってサイケデリックな妖しい感じ、しかもCDにして二枚組ですよ。多分、普通に人に勧められて聴いてみるという段取りだったら、少なくとも最初の一枚として手に取ることはなかったであろうとかなりの確信を持って言えてしまう。 あ、ちなみに次に数年後、アコースティックジャズもきちんと勉強しようと思って購入したのは、こちらはそれなりにオーソドックスな『Kind of Blue』。とはいえ、音楽的にはやっぱり独特で、若者が一聴してその凄まじさを理解するにはあまりにもハードルは高かったのは間違いない。普通にアコースティックジャズを聞こうと思った時にスウィングジャズでもBe Bopでもない『Kind of Blue』を手に取るというのも、まぁ、どうかとは今更ながら思う。でも、一聴してカッコいいとは思ったんですけどね、それも限られた人としか共有できなかったのだよね。 それはともかくとして何故、本作かといえば、クドクドと本ブログで取り上げている通り、[『ADLIB』誌での推薦盤](https://spreadmywingssite.wordpress.com/2024/04/13/adlib%e8%aa%8c%e3%81%ae%e6%80%9d%e3%81%84%e…
Miles Davisのアルバムを取り上げるなぞ、色々な意味で畏れ多いのだけれども、まぁ、このブログのシリーズ の一つ(フュージョン名盤)としては外せない一枚ということで、あえて。
実は、筆者にとってMiles Davisに関して(なんと一切、未聴のまま)最初に買ったアルバムが本作である。 多分、世の中に数多いる音楽リスナー、Miles Davisリスナーの中でもかなり特殊な部類に入るのだろうな、という自覚はある。オーソドックスなアコースティック・ジャズアルバムでもなければ、聴きやすいスムーズなフュージョンでもなく、アルバムジャケットだってサイケデリックな妖しい感じ、しかもCDにして二枚組ですよ。多分、普通に人に勧められて聴いてみるという段取りだったら、少なくとも最初の一枚として手に取ることはなかったであろうとかなりの確信を持って言えてしまう。 あ、ちなみに次に数年後、アコースティックジャズもきちんと勉強しようと思って購入したのは、こちらはそれなりにオーソドックスな『Kind of Blue』。とはいえ、音楽的にはやっぱり独特で、若者が一聴してその凄まじさを理解するにはあまりにもハードルは高かったのは間違いない。普通にアコースティックジャズを聞こうと思った時にスウィングジャズでもBe Bopでもない『Kind of Blue』を手に取るというのも、まぁ、どうかとは今更ながら思う。でも、一聴してカッコいいとは思ったんですけどね、それも限られた人としか共有できなかったのだよね。 それはともかくとして何故、本作かといえば、クドクドと本ブログで取り上げている通り、『ADLIB』誌での推薦盤だったからに他ならない。つまり、Miles Davisに興味があったというよりも、フュージョン名盤の一つであり、フュージョンという音楽を理解するに外せない知識の一つである、という位置付けだった訳だ。以前にも書いたように、Miles Davisが亡くなったことの意味すら当時はすぐに理解できていなかったのだから、見る人から見れば随分と罰当たりな奴であろう。 今更ながらすみません、笑。
さて、本作、いわゆる「エレクトリック期」に入っていく流れの中で創作された作品であり、その後のクロスオーバー、フュージョンシーンを担っていく数々の逸材が参加したアルバムである。なにしろ、Chick Corea、Herbie Hancock、Joe Zawinul、Wayne Shorter、Jack DeJohnette、John McLaughlinなどが名を連ねているのである。もちろん、Miles Davisの作品というのはこれ以前もこれ以降もだいたいそんな感じでまさにMiles School的にそこから巣立ち、活躍していった人材は数多い訳だが、その後に生まれたものを考えるとよくもまぁ、そんなに特定の時代にこれだけ一騎当千の人が集まったものだと驚かざるを得ない。 で、作品としては有名な録音テープ回しっぱなしで長時間のセッションで録音したものをTeo Maceroの手になる編集で形を整える、という体になっている訳だが、ポリリズムにせよ、楽器の割り振りにせよ、相当緻密に組み立てられ、さらにそれが編集によって研ぎ澄まされたのであろうことが窺われる(未だ、本作のポリリズムについてはよく分からないのだが)。 それはともかくとして、筆者にとって衝撃的だったのはやはり、Miles Davisのトランペットだった。 あれやこれやと参加ミュージシャンがワチャワチャと色々なことを演奏してはいるのだが、Miles Davisのトランペットが鳴り響いた瞬間に全部がMiles Davisの音楽になるというのだろうか、まるでピラミッドの頂上に陣取って蟻のようにゴチャゴチャ動き回る下々の者を睥睨するかのようにラッパを一吹き、という感じで、まぁ、なんとも超然といた感じになんじゃこりゃぁ!という。 しかも、その音たるや音楽としての熱量や密度は桁違いに高いのに文字通り「Cool」。ヒンヤリとした冷気が足元に流れるかのように緊張感が増し、全てがピリリと引き締まる。数年後に、復活期以降のものではあるが初めて映像作品を観た時にも同じような空気感を感じて、いやぁ、これは怖いわぁと思ったものだ。 ということで、それはそれは衝撃的な音との出会いだったのである。
ちなみにその「参加ミュージシャンがワチャワチャと色々なことを演奏している」感じとかそういうのの非現実的な感触も含めて、しばらくは熱で寝込んだ時に朦朧としながら流し聴くアルバムの一つになっていたのは懐かしい話(他には、Frank Zappaの『Zappa in New York』とか、笑)。
しかし、改めてこうやって書いてみても歴史的な経緯や参加したミュージシャンのその後も含めた音楽的な文脈、系譜を辿る意味では絶対に外せない作品である事に議論の余地はないものの、この作品がフュージョンというカテゴリーに当てはまるのか、というとどう考えても洗練された音楽としてのメロディアスで爽やかな印象はカケラもなく、クロスオーバーというにも単純にロック(やファンク、R&B)とジャズを融合、とかいう分かりやすさは希薄でもっと混沌としているし、実際問題、筆者にとっては「この時期のMilesのやりたかった音楽」という意外に適切な表現はない印象ではある。確かにここから巣立って展開して行ったミュージシャンは多いわけだが、直接的にここに収められた音楽そのものを継承したという感じでは、ない。どちらかというと音楽的なインスピレーションを与えた、という感じだろうか。 まぁ、でも見方を変えれば、いわゆる一般的なイメージとしての「フュージョン」だけを追いかけていても決して手に取る事のなかった(少なくとも数年は遅れていた)一枚ではあり、そういった出会いのラッキーさというのは間違いなくあったな、とは思う。
また、怖いもの知らずというか、とにかく名盤の一つだから聴いておこうという若さゆえの勢い、ある種の素直さが功を奏したというべきで、最初期の段階でこのアルバムを手に取ってみた事で「自分にはよく分からないけれど、でも世の中に凄いものはあるのだ」(実際、本作だってしばらくは別に愛聴するとか、そういう状態ではなかったし)とか「音楽にも色々なものがあるものだ。良いと言われたものは食わず嫌いせずに知っておいた方がいいな」みたいなことを身体的に叩き込めた、というのはラッキーだったと思う。